オットー・ショット

( Otto Schott : 17dec1851-27aug1935 )

 
 

 別名『ガラス博士』の異名を取る。1851年5月17日ヴィッテン生まれ。ショットはこの町のリール国民学校を経てハーグの州立職業学校へ入学し、卒業後は工芸高等学校に進み、1870年の冬学期ではフランスのガラス工場の職工について実習した。その後も勉学に励み、1875年に「窓ガラスの製造における失敗」をイエナ大学に提出した。これはガラス溶融に実際に大きく貢献する資料であり、この論文がアッベの目に留まり、将来ツァイス、アッベに出会うこととなる。
 ショットはヴィッテンの実家に戻り、地下室へ閉じこもって高温科学の研究に没頭した。四六時中仕事着を纏い、円筒形の小型溶解炉の前に立った。250mlの耐火ルツボに向かい、熱心に空気を吹き込むと、白熱するコークスから出る熱で全身汗だくであった。溶融物の塊を入れた小さなルツボを予め高温に保温した状態で、これを炉の上から白熱するコークスの火中に入れることは、並大抵の苦労ではなかった。全身にしたたる汗を拭おうともせず、熱病に犯されたようにガラス創りに没頭した。その姿は見る者に奇人の感すら与えた。書物に無い新種ガラス創りは、自分の経験と勘だけが頼りであった。ガラスの素材を量り、混合、攪拌、加熱する技術は、誰の教えも受けることはできなかった。

 1879年ショットはリチウムの新種ガラスの製造に成功する。このガラスはアッベのもとに送られ、アッベにより屈折率や分散の測定が繰り返されていった。1882年2月にはワイマールにショット・ガラス実験所が設立され、1886年までに44種類の新種ガラスが市場に供給された。そして1889年ショットは原料に酸化バリウムを加えると屈折率は高くなるが、分散は大きくならないことを発見し、酸化バリウムと三酸化ホウ素をケイ酸ガラスに投入することで、重クラウンガラスの製造にも成功した。
 さらに原料は勿論、加熱、冷却にも磨きがかかり、完全なアポクロマートが蛍石によって作られた。また、後にツァイス社に入社するパウル・ルドルフが設計するレンズに使うクラウンガラス等にも大きく加担し、彼の存在はツァイスレンズの開発・発展には無くてはならない存在であった。

 

 

 

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