パウル・ルドルフ

( Paul Rudolph:1858-1935 )

 

 パウル・ルドルフは1858年生まれの数学者で教職を目指していたが、1886年にエルンスト・アッベの招きによって、ツァイス社に入社することとなる。この時、ツァイス社で始めて写真レンズの設計を手掛けたのであった。4年後の1890年には写真部門が設立され、ルドルフはその責任者に抜擢される。 ルドルフが光学設計を始めたころ、すでにレンズの諸収差のうち球面収差など、基本的なものは、補正できる技術が確立されていた。しかし、像面湾曲の問題はほとんど手付かずの状態で、現在標準レンズと呼ばれるような画角では画面の平坦性(全画面に渡った画質の均等性を含む)に問題を残していた。天才的数学者として名高い彼が取り組んだのは、この分野であった。
 そのころアッベが顕微鏡で確立した正弦条件理論や各種測定器も、ルドルフは写真レンズ設計に応用することにより、1890年、32歳の若さで彼が完成させたツァイスの写真レンズがプロターであった。このレンズは絞りを挟んで異なるガラスを配し、色消し(滲みを減らしシャープネスをあげる)をするという、彼の代表的な理論の一つを取り入れた画期的なものであった。これによりカメラ部門の業績が飛躍的に向上し、主製品であった顕微鏡部門に匹敵するほどに成長させた。
 次に平坦性が高く大口径の可能なものを目指し、6年後の1896年、38歳のルドルフは、球面収差と非点収差を補正した無収差レンズ、プラナーを発表した。このレンズが後の大口径レンズの基本形となり、写真レンズの発展における重要な出来事であった。しかし、当時としてはレンズの構成枚数が多いプラナーは、ガラス面での反射が多く、ゴーストの発生という問題を解決できなかった。コーティング技術が確立する戦後まで、プラナーの実販はしばしの間お預けとなってしまった。
 6年後の1902年、ルドルフはエルンスト・ヴァンデルスレブの力を借りて、テッサーを発表、特許申請を行う。このレンズはシンプルな構成からは信じられないようなシャープな写りから「鷹の目」のキャッチフレーズで親しまれた。
 ツァイス、アッベ、ショットの3人は確かに創立に絡んでおり、高名であるが、パウル・ルドルフ博士も大きな貢献度から考えれば、実に3人に引けを取ることなく、ツァイス史は勿論、レンズ史からは外せない重要人物である。

   

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