ヤシカの歴史

 
 


ヤシカのマスコット「ヤシカ坊や」

 長野県諏訪市の八洲精機製作所から事業を引き継いで八洲精機株式会社が設立されたのが昭和24年で、これがヤシカの母体となる。継承当時は電気部品や時計部品の精密加工を主として行っていた。昭和28年に商号を八洲光学精機に改め、カメラ製造に着手した。
 昭和28年、第一号機としてヤシカフレックスB型を世に送り出した。次いで29年にはヤシカフレックスS型を発売、これは露出計内蔵カメラの先駆けであり、当時としては独創的な二眼レフだった。同年さらにダイカストボディーのヤシカフレックスA型は1万円を割る価格で「三等料金で一等車へ」のキャッチフレーズで飛ぶように売れ、カメラが贅沢品であるという概念を打ち破った。

Yashicaflex B

 

 昭和40年代に入ると、、精度の高い露出とシャッターが要求され、これから先、カメラ技術が電子化されることを予測した上での研究開発が進められた。やがてコパルとの共同開発により、電子シャッターが生み出された。昭和40年にはCdsによる外部測光絞り優先方式の電子シャッターを装備したエレクトロハーフが生産され、これをベースに昭和41年に完成したエレクトロ35は電子カメラのパイオニアとしての地位を築いた。

Electro Half

Electoro35

 

 昭和47年にはAE化された一眼レフ高級機、エレクトロAXが生産された。これにはTTL測光電子シャッターAEを搭載。また、当時難しいとされていたIC記憶回路をヤシカ独自の方式で開発装備した画期的なモデルであった。この種のカメラとしては創生期であり、このAXは業界からも大きな注目を浴びた。

Electoro AX

 
 翌昭和48年、オイルショック期を迎える。このような混乱期にありながら、水面下で西ドイツのカール・ツァイス財団との技術提携の話を進め、ついにCONTAXボディの製作を担う運びとなる。ヤシカのカメラは廉価ブランドのイメージが強かったが、西洋の高級ブランドCONTAXを作ることで、そのイメージは払拭された。しかしながら高価なCONTAXと舶来のZEISSレンズは思うようには売れず、資本力の無かったヤシカは1983年にファインセラミックで有名な京セラ鰍ノ吸収合併される運びとなる。

 

 

 

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